三月に聴講した『ヨーロッパの医療と口承文学』という公開講義で、
手を上げていた方が、オカルトとして内包できる魔法・魔術・魔女の観点からのみ(・・)もの申していたのが的外れで、少し心に引っかかっていた。
講義はオカルティックな現象としての医療や魔術の施しについて語っていたわけではないからだ。
ベッテルハイムの『昔話の魔力』から言葉を借りれば「民話や昔話が語ってくれるのは、世界普遍の人間問題について」で「昔話は、人生の問題を正しく解くにはどんな道があるかを暗示する」ものである。つまり、口承文学に現れるヘンテコ医療は「直面した困難を乗り越える」手段でしかないのである。
元来、民話や昔話は想像しやすいようにストーリー仕立てにされた教訓集であり、困難を乗り越えるための想像力を育むためのものだ。テーマは口承文学。だから、あの場において魔女裁判だの、魔女と猫だの、そういうのはお門違いだったといえる。
子どもはタロットの愚者(0)となぞらえられるほど、ものを知らず、だからこそみずみずしい未来がある若者である。世界を測る物差しが短いがために、想像で補う。仮想メモリだ。未熟な子どもにとって、現実世界はそれこそ魔法と同じぐらいフシギでいっぱいなのだ。だから想像力が必要になる。
物語を書く人間として、私はいつも「想像がきく」ように心がけている。少女の明るい声、不機嫌な顔、潮風が運んでくるバターと小麦粉の焦げた匂い、甘酸っぱいベリーソース、段差のある場所を楽々飛び越える少年。知ってることならありありと、知らないことなら想像で補ってもらえるように。
これは誰かにとっては余計なことかもしれない。しかし物語の世界を文章という断片でしか提示できない私は、読者の想像力に頼らなければいけない。あなたの心で音が聞こえ、色が弾け、風が肌をなでた拍子に香りが思い出されたとき、ときめきに喉が渇き胸が高鳴るとき、物語の世界が現実に現れる。
物語の世界をありありと想像できたそのとき、それはたった一人が作り上げた空想ではなく、たった一人の、たった一度の経験になる。それこそが豊かな読書経験だと、私は思う。まるで異国を旅したような充実感でいっぱい、そして心地よい疲労と憧れに体を放り投げ出したくなる。私はそんな物語を書く。
つまり「行きて帰りし物語」というわけだ。そして、あなたがその心で旅した冒険の物語は心の中で永遠性(Never ending)を持つ。そして登場人物はいつでもそばにいて、あなたをよきともとしていつでも呼んで(Calling)くれるだろう。あのやさしくなつかしい、かぎりなく自由な、ファンタジィの世界へ。
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