2019年6月13日木曜日

よみかきについてかんがえてみた。

不慮の事故や人権問題など、世界は目まぐるしく動いています。
それらに心を痛めつつも他人事としてさておき、静かに本を読み思考実験をできる時間を持っている私も、世界の構成員であります。
知りつつも同一視しない、というのは確立された自己の証明なのかもしれません。

さて今日は「読む」「書く」という行為について考えていました。

「我が国の教育で識字率が~~」とか「日本語の読めない人が増えている」とかそういうのをはじめると、まず私は教育指導要領がそもそもの害悪であるという話をしたくなります。遺伝子が違う、それぞれ個性的な脳を持つ人間をハコにつめて画一的な教育を施したところで、全員が同じ目標(九九の九の段を2日で暗唱できるようにする、とか)を達成できるはずがないのです。馬鹿げています。それで個性の尊重などと、どの口が言いましょうか。

先行研究もしていない独断と偏見でできた論文風味の読み物として、全3回程度、つらつらと思考実験を書き連ねてみたいと思います。

『「読み書きができる」ということ』

もくじ

  • 1.「読む」とは肯定的な行為である

1-1 読書は「全肯定」前提
1-2 「迎える」ということ
1-3 「全否定」前提の読書
1-4 選択の自由とアレルギー

  • 2.身体化した言葉を「書く」

2-1 「〇〇み」を出したがる風潮
2-2 誇大も矮小も等しく虚構
2-3 心への直接的プレゼンテーション
2-4 伝えたいことは「何」であるか

  • 3.自己と言論

3-1 文章を通じた生身の交流
3-2 言論のありか
3-3 感動と客観視
3-4 「参考にする」

  • 4.「読み書きができる」ということ
目次だけ書いたよ。
中身はおいおい、増やします。
先行研究も、ちょっとやってみます。

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