「知らない君になっていく。君が離れていく気がして、怖い」
これは私の知られざる一面を垣間見た、伴侶の言葉です。
私には、この怖さがわかりませんでした。
当初は嫉妬や独占欲ではないかと勘繰りましたが、どうやらこの言葉にすべてが集約されているように感じられます。
少しだけ、私の見解を綴ってみることにします。
人格は多面体です。球ではないと思っております。
球には角がありませんからね。
人格と人格がぶつかるとき、それこそ角が立つことは少なくありませんから。
接する面もあれば、死角になる面もあります。
付き合う人によって見せる面、見せたくない面、さまざま存在します。
幼いうちは平面でお付き合いをする感覚があります。
庇護者と保護者という二者間にペルソナが必要ないからです。
しかし、第三者の登場により、ペルソナの存在が必要になります。
たった一面だけでは太刀打ちできない何かは、社会的な存在です。
俗に言う、他者のことですね。
幼児にとって保護者は自信と同一視されるもう一つの自分自身であって他者ではありません。それは母親も無意識に抱く感覚であるとききます。
言わば家庭は、自分だけの世界なのです。
その世界に現れた異質な存在は、敵なのか、果たして味方なのか。
出会ってしまったからには対処せざるを得ません。
そのときはじめて、人格に折り目がついていくと、私は考えます。
出会った人の数だけでもいいでしょう、生きてきた環境でもかまいません。
「その場にそぐう自分」を創ることを学び、人は社会生活を送れるようになります。
そうしてそれぞれに人格という立体を組み立てた人間同士が出会うわけですね。
触れ合った面が強い共感で結びついて、人生の伴侶となることもあります。
抱きしめた体と体の接点で、相手のすべてを包み込んだような気持ちにだってなれます。
しかしそれは点と面であって、表面積すべてではありません。
人格の多面体においても、同じことが言えると考えます。
強く結びついた面を良く知り合えても、死角となった部分はその存在をぼんやりとうかがい知るか、あるいは全く知らずにいることだってあると思うのです。
初めて目の当たりにした一面、それが原因で、パートナーを見限ることはあるでしょうか。
現実にはあり得ると思います。
「私の知っている彼(彼女)ではない」とひどく幻滅したりするのが、それに相当するのではないでしょうか。
がっかりするほど相手に期待や理想をかけているほうが、ちょっとどうかしている、というのが私の偏見です。
家族になるということは、人格の多面体がどんどんと展開され、ついには平面になる、いわば新たな自分たちだけの世界、家庭が構築されるものだとおもいます。
磨いてきた一面もあれば、隠しておきたかった一面もあるでしょう。
でもそれもひっくるめて額を突き合わせていくべきだとおもうし、そうしたいのです。
だから、私はもっとさらけ出していこうと思います。
「知らない私がなくなれば、不安になることはないでしょう」と。
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