2016年2月13日土曜日

絞りこむスタイル

こんばんは、暴飲暴食で体力をつけた気になっているここあです。

自分のやれることをやれるだけやった結果、手広くなって収集がついていないわけで。
時間割から解放されて久しいですが、ちょいとひとつ創作時間割など作ってみようと思います。

文字 1時間
おえかき 1時間
練習 1時間

どれも一時間で終わるわけないじゃないですかヤダー!!

でも、これくらいじりじり毎日続けていかないといけないって思うんです!
明日からやるぞ!
今日はもう眠たいからね!

2016年2月10日水曜日

私とあなた、二人合わせて四つの瞳

SHIROBAKO見る度に大きなうなずきを繰り返すここあです。こんばんは。
お正月の一挙放送から冬クールにかけてBS11で再放送中なのを追っかけています。
今日見たのは打ち合わせ回。
何たる偶然か、本日は我々サークルちょこれいつも打ち合わせの日でございました。

お互いの仕事の範疇がイラスト・漫画・設定という点でかぶるので、なにかとすり合わせる部分が多いのが常なのですが、今回はそういうすれ違いや作業のお話ではなく、編集について書いてみたいと思います。

最初に、私は素人です。
ですから編集を生業とする方々には及びませんし、そもそもやっていることが間違っているかもしれません。

まず、創作する脳みそについて少しだけ。
人生経験とその刺激が想像力に結び付くと、創作対象を考え始めるインプット状態になりますね。
それを脳の外に出していく作業がアウトプットです。
教育にも言えることですが、この、イン/アウトの繰り返しで情報は定着し、整理されていきます。

インプットばかりだと、混然としてくる情報を整理するために何かしらのアウトプットは必要です。
これも私の常とう句ですが、人によって違いますから、声だったり、文字だったり、絵だったりするでしょう。
私は文字ですが、相方のしろたんこと白城ちょこほは声でした。
私たちの打ち合わせは対面がよいようです。

さて、実際に私がしたことを書いてみましょう。
それは、ただの質疑応答です。
私は、迷走とは「答えは本人の中にあっても悩みに埋もれて見つけられない」状態であるという認識をしています。
「気持ちばかりが急いて」いるところに、論理は求められないものです。それはもちろん、自分にも該当します。
こういった迷走時に必要なのは、「積極的な聴き手」であるといえます。
ちょっぴり心理学的なアプローチ。
「積極的」というのは、相槌を繰り返すだけでなく、相手の発言をオウム返しにして問い、話を確認しながら聴くという姿勢から来ています。
「へー。そうなんだー。ふーん」は、それに値しないただの聞き手です。
優れた聴き手は相手からどんどん話題を引き出せるといいますしね。

さて、今日は、色々質問しました。
どうして漫画を描きたいのか。
主人公は物語以前にどんな生き方をしてきたのか。
主人公の動機は何なのか。
ヒロインの境遇は。
主人公サイドの意図を邪魔する存在は。
社会的情勢は。

尋ねながら、情報を追加しながら、板書のように落書き帳を黒く染めてゆきました。
私は優れた聴き手ではないので、途中で思いついた流れを話してしまうこともあります。
口ははさみますが、それは話の流れから推察した限りの自然な成り行きを想像してのことです。つもりっこ。
もちろん発言に上手くいく確証はありませんから、すぐ訂正したりも。
生命の維持のためお腹がすいて、それが苦痛なのは生きるためで、生きるために食べ物を求める。
そういう風に、事象には理由がはらむことを強く推して、骨を何本か突き刺すこともあります。

これは、数学の口頭試問のように、解法を知り尽くしていることを証明するための質疑応答ではありません。
自らの考えを口にしてもらって、思考の隙間を見つける作業なのです。
悩みというのは同じこと、同じ感情の停滞したループですから、そこから抜け出すには他者の目が必要なのです。
落ち込みうつむいているときに、肩に手を置かれる、そういうイメージでしょうか。
鏡に向かって自問自答を続けると精神が病むと聴きますが、それを脳内で行い続けるのは濃く過ぎる話です。
世界は同じでも、視界が異なればかたや光、かたや闇と見え方が全く異なります。
自分の両の目でも見ているものがずれていますが、かといって耳の裏が見えるわけではないでしょう。

質疑応答で情報が整理されていくと、おのずと必要なものが見えてきます。
整然とした考えで満ちた頭は、すっきりと風通しがよく涼しく感じられます。
目の奥が、すん、と冴えた感覚です。
これは、集中の予兆。

とりあえず、「あ、ほこりついてるよ」の調子で、相方としての務めを果たしてまいりたいです。

まとめ


2016年2月4日木曜日

手と点、目と面

「知らない君になっていく。君が離れていく気がして、怖い」

これは私の知られざる一面を垣間見た、伴侶の言葉です。
私には、この怖さがわかりませんでした。
当初は嫉妬や独占欲ではないかと勘繰りましたが、どうやらこの言葉にすべてが集約されているように感じられます。
少しだけ、私の見解を綴ってみることにします。

人格は多面体です。球ではないと思っております。
球には角がありませんからね。
人格と人格がぶつかるとき、それこそ角が立つことは少なくありませんから。
接する面もあれば、死角になる面もあります。
付き合う人によって見せる面、見せたくない面、さまざま存在します。

幼いうちは平面でお付き合いをする感覚があります。
庇護者と保護者という二者間にペルソナが必要ないからです。
しかし、第三者の登場により、ペルソナの存在が必要になります。
たった一面だけでは太刀打ちできない何かは、社会的な存在です。
俗に言う、他者のことですね。
幼児にとって保護者は自信と同一視されるもう一つの自分自身であって他者ではありません。それは母親も無意識に抱く感覚であるとききます。
言わば家庭は、自分だけの世界なのです。
その世界に現れた異質な存在は、敵なのか、果たして味方なのか。
出会ってしまったからには対処せざるを得ません。
そのときはじめて、人格に折り目がついていくと、私は考えます。
出会った人の数だけでもいいでしょう、生きてきた環境でもかまいません。
「その場にそぐう自分」を創ることを学び、人は社会生活を送れるようになります。

そうしてそれぞれに人格という立体を組み立てた人間同士が出会うわけですね。
触れ合った面が強い共感で結びついて、人生の伴侶となることもあります。
抱きしめた体と体の接点で、相手のすべてを包み込んだような気持ちにだってなれます。
しかしそれは点と面であって、表面積すべてではありません。
人格の多面体においても、同じことが言えると考えます。
強く結びついた面を良く知り合えても、死角となった部分はその存在をぼんやりとうかがい知るか、あるいは全く知らずにいることだってあると思うのです。

初めて目の当たりにした一面、それが原因で、パートナーを見限ることはあるでしょうか。

現実にはあり得ると思います。
「私の知っている彼(彼女)ではない」とひどく幻滅したりするのが、それに相当するのではないでしょうか。
がっかりするほど相手に期待や理想をかけているほうが、ちょっとどうかしている、というのが私の偏見です。

家族になるということは、人格の多面体がどんどんと展開され、ついには平面になる、いわば新たな自分たちだけの世界、家庭が構築されるものだとおもいます。
磨いてきた一面もあれば、隠しておきたかった一面もあるでしょう。
でもそれもひっくるめて額を突き合わせていくべきだとおもうし、そうしたいのです。

だから、私はもっとさらけ出していこうと思います。

「知らない私がなくなれば、不安になることはないでしょう」と。