2015年12月30日水曜日

性についての一考

枕頭の書に、アーシュラ・K・ルグィンの『闇の左手』を選んだのは、全くの偶然だった。
気紛れに文庫の箱から取り出した一冊の、紙のカバーをめくったらばタイトルが判明した。
本書には、人間の男性である主人公の他に、両性具有の異星人が登場する。
彼らを彼(he)ないし彼女(she)と呼ばざるを得なかった言語について、少しだけ考えた。
私は言語に通じてはいないが、これだけは確かではないかという点を一つだけ見つけた。
「私」という自称には、性別が存在しないのだ。
二人称にも無いと言っていいかもしれない。
三人称になった時、「わたしとあなたではない、なにか」を表す為に性が必要になるのだ。
これは何とも不思議な事象ではないか。
性というのは、繁殖するであろう二者間にとって必要な要素なのに。
「あなたとわたし」だけの世界で必要な要素が、なぜ第三者の登場に関わるのか。

ここで思うのは、ある程度の具体的な描写が、より深い認識の共有に繋がることである。
仮に、二者間の話題に登場した第三者を「あのひと」と称する場合の曖昧さには、一種の不快感さえ覚えるほどだ。
相対する二者以外の人間の全てを指していることになるからだ。
彼、ないし彼女を用いた時には、その数を少なくとも半分には限定できる。
指示語のもつ性格と曖昧さに分別の良さをプラスしてあげられる、それが三人称なのだろう。

固有名詞は直接的にその存在を指すことができるが、私にはそれが刺激的に感じられることがある。
修飾された代名詞によっての少々回りくどい表現でも、文脈により一個体を表すこともできる。
文脈と言うと物の解かった人間のようで嫌なので、このように言い変えてみたい。
「その文章の著している場面と人間関係」と。
私はどうも「文脈」という字面に一種のコンプレックスがあるようだ。
流れる川のような文の中へ無遠慮に首を突っ込み、水に痛む目を見開き、その文章が示唆する川底を覗けと、強要されるように感じるのだ。
とまあ、そんな事を思いながら筆を執る私は、自在に物語を泳ぎたい性分だ。